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オリジナル獣漫画描いたり、スターフォックスだったり、映画だったり音楽だったり

哲学とは

時間の流れに心がついていかないまま、私はいよいよ22歳になろうとしている。

ネット世代はとくに時間の感覚が早いと言われるが、私もそれのまた一人であり、情報の波をコントロールすることすらままならず、翻弄され、成熟することができなくなっている。目の前の情報は幻惑だ。SNSを始めると、その幻はさらにまことしやかに惑わしにかかる。

私が成熟できていないその間、ひと足お先にと、さまざまな人が死という最後のステージに到達している。

 

父の場合、叔母の場合は、そのあとの段階に葬式や通夜などという儀式をはさみ、心の整理をつけられた。だが、血の繋がっていない者の死にはなかなか介入することができない。

 

そして死とは厄介だ。

 

出会うタイミングに予想などつかない。突然の別れのタイミングは、人の心に大きな打撃を与える。

私に死神や死相なんて見えやしない。この平和な日本にいながらたくさんの死のシーンを見届けてきたが、早い段階で死を理解するどころか、経験するごとに、さらに奥深くの深みにはまっていく。その時にある大きな感情を一つ知るごとに、芋づる式にわからないことが増えて行く。ドライに割り切れればいいものの、非常に子供っぽい芸術家の性分のせいで、好奇心が死の世界へ引きずり込んでいく。

仏陀やキリスト、そして後世の多数の思想家や宗教家は、どれだけの死をみて、死の解釈や哲学を学んだのだろうか。彼らの敏感すぎる感受性は、死を前に使命感を抱いて考えたのだろう。そして段階をふむごとに、死をどう受け入れるかの解釈のみならず、今をどう生きるか、に重きが置かれている。

仏教の戒律であったり、フランクルの人生における目標であったり。それは強い使命感と、究極のリアリズムがそうしているのだろう。

いつしか彼らの思想に足の指の先がつっこめたら嬉しいと思う。

 

次はごく個人的なこと。

もっと生きたかったよね。これから出会うものは何であれ、求めるということができるのは生きているうちだけだったんだ。

生活から抜け落ちた足音や姿かたちすべてが、すべて重々しい空虚にすげかわっている。父が死んだ時は、私が起きたあとに聞こえてくる足音、朝食の席、駐車場からでていくはずの車の音がすべて動かずにとどまっている。これが不気味だった。

日常から父の存在が失われたことで、家の隅々から悲しみがもたらされる。辛いのは葬式が終わった後、日常がやってきてから。

 

私が廃墟を書こうと思ったのは、この不気味で悲しい虚の存在があったからだ。闇の吹き溜まりには悲しみが伴い、やがて自分にも迫っている影が映し出される。一生をかけて、描き出されたモチーフに、死生観が投影できればいい。日本画家としてやっていくつもりはあまりない。

絵画制作こそ私の哲学である。